5月の初め、祖母の訃報を受けました。
4月に入院したこと、そして状態が悪く幾日ももたないかもしれない、との初報を受けてから、本当に数日のことでした。
別れと、再会の記録を、残したい。
3年前、祖母の夫である祖父が亡くなった。
コロナ禍もあり、孫の参列は遠慮する、となった。
実際、2歳の末っ子に手を焼いていた時期でもあり、訪問は難しかっただろう。
もう一方の祖父母はすでに他界しており、私にとっていわば『最後』のおばあちゃん。
そしてこれまでのいずれも、私はお別れに行けていない。
今度こそは。嫌な言い方だけれど、次こそは。
悲しくとも、辛くとも、最後のおばあちゃんのときは、私は行かなければならない。
そう決意していました。
期せずも、初報はゴールデンウィークの只中。
クローゼットから、10年くらい前に買ったままの喪服を引っ張り出した。
パンプスとフォーマルバッグを買いに走った。
心落ち着かぬまま子と過ごす連休に、知らせが入る。
よし。夫も休暇が続く。行ける。一人で行こう。
そうして詳報が入ってからチケットの調達を検討するがしかし、そう、期せずしてのゴールデンウィーク。
チケット取れない。ホテルもなかなか厳しい。同宿2泊はまず無理そう。
特に帰りは連休最終日。新幹線も飛行機ものきなみ満席。行けても帰って来れない。それは困る。
命運尽きたか、、と思いきや。
朝始発の新幹線なら空きがある…!!??1泊2日の旅程なら行ける…!!
なんとか見通しがたち、早急に切符とホテルの手配を済ませた。
いろんなルートでの往復を検討したけど、旅行好きで良かったな、と感じた瞬間。
家にある路線図本も役に立ったわ。
弾丸ツアー1泊2日の旅程は、葬儀に間に合う設定で向かいました。
が、新幹線の乗車中、「葬儀場に着く時間帯はみんないないかも」との連絡が親から入る。
土地柄、葬儀の前に火葬を行うため、私の到着時刻頃は、ちょうど火葬場に向かう時間に差しかかるらしい。
せっかく行けるなら、なんとか最期のお別れをしたい。
その気持ちを汲んでくれた親戚が、従兄弟を駅まで迎えに寄こしてくれた。
30年近くぶりに会う従兄弟は、正直誰か分からなかった。
斎場に着いて、受付に荷物を預けてすぐ。
通路に棺が運ばれてきた。
もう霊柩車にのせる段だった。
孫である旨を伝えたら、葬儀場のひとが、棺の小窓を開けてくれた。
「ああ、おばあちゃん、かわいくしてもらったねぇ」
お顔の周りに納められた花々は、祖母にぴったりの優しい色合いだった。
在りし日よりもずいぶんと小さくなった姿に、涙が出た。
外へ向かうところを見送ると、奥で見知った顔立ちの面々がざわめきながら支度をしている。
伯父だ。伯母だ。
…え?亡くなったはずの伯父にそっくりな人…あっ、いとこのイケメンお兄ちゃんか、えっおじさんになってる
そんなことを思いながら、伯父の車に両親とともに乗せてもらい、火葬場に向かった。
街の変化や懐古話をしながらの車中。
「はつはるさんは、昔から本当よく来てくれたものねぇ」
祖父母は二人で暮らしていたから、孫として一人旅をするのは気楽で、心地よかった。
学生時代は年に1~2回、学割の当日券で行っていた。
会社員時代は、退勤後に新幹線で向かうこともあった。
私が最後に来たのはコロナ前、2018年。ずいぶんと前だ。
伯父伯母と直接会ったのはもっとずっと前のはず。
「ありがたかったねぇ」
「んだな」
と言う伯父伯母に、きっと買い出しとかで結構なお世話をかけていただろうことを、今更ながら思い知る。
火葬場に着いて、最後のお別れの時間を迎えた。
作法が分からず不安だったけど、遺影を見つめたら、作法どころじゃなかった。
心をこめての見送りができれば、それでいいんだと感じた。
一方で炉に入っていくところは機械的で、少し驚いた。
待ち時間は長い。
がしかし、こちらでは『火葬の時間中ずっと、祭壇に水を替えながら供え続ける』という風習があるらしい。
「焼かれている間熱いから、っていう文化みたいだよ」と従姉が教えてくれた。
控室と、祭壇前と。
ゆったりと移動しながら、あるいはお茶を飲みながら。
伯母と、従兄と、数十年ぶりに話す時間ができた。
何度水を替えるため手を合わせても、どうしてもお作法は慣れなかった。
そうして骨あげの時間が来る。
熱いその箱の、姿は、想像よりもボロボロだった。
こちらもお作法はよく分からなかったけど、立ち位置的に、大きな骨が残っていて。拾わせてもらった。
ふと反対側に立っていた面々がざわついて、少し大きな声が上がった。
「ボルトだ」
「ほんとだネジだ」
手術の残り。
生きた証。
よく見ると、こちら側にもいくつもネジが転がってる。
「頑張って生きてきたんだ」
「おばあちゃんの全部だから、ちょっとでも多く拾ってあげないとな」
と細かい骨を集める父に、また涙が出た。
葬儀場に戻り、お葬式の準備が整えられる。
従姉と、従兄の奥さんとお話しする間に、お坊さんがやってくる。
相変わらずお作法は分からないまま、お経もよく分からないまま。
ただ『故人の在りし日の姿』みたいな話をお坊さんがして、そうだよ、おばあちゃんってそうだったよ、、って涙腺決壊。
わたしはどんなことを言われるのだろう、と思ったりもした。
葬儀後は初七日の法要もあわせて行われた。
袈裟のお召し替えがある、とお坊さんがいったん退出されたけど、戻ってきてなにが変わったのか分からずふふっとなった。間違い探しみたいで。笑
そしてこちらでもお作法は変わらずぎこちない私。
そうして時間が過ぎ、すべて終わる。
喪主であった従兄が出発し、続く伯父夫婦と私たち。
せっかくだから、もうこんな集まることないから、と伯父夫婦が食事に連れて行ってくれた。
伯父夫婦、従兄一家、両親、私。
たくさん話した。初めて会った従兄妻さんとのお喋りが大変楽しかった。
従兄は子供のころから将来有望されるタイプの少年だったけど、まじで『しごでき男』感しかなくてなんかすごかった。←
従兄妻さんも仕事やべーでき女なんだろうなと察した。
お喋り楽しかったのも妻さんのおかげ…私よりちょっとお姉さんだったかな。素敵だったな。憧れる。
昔自作した家系図の、名前しか知らなかった相手に出会う不思議な喜び。
さて、そんなこんなで別れと再会、新しい出会いのあった一日が過ぎます。
伯父からは
「次秋田さ来たらウチに来ればいいから」
「次は秋田料理のお店連れてくから」
と言葉を頂戴した。
行きの新幹線で、
「もう秋田に向かうのも最後かな」と、目に焼き付けるように眺めた車窓。
帰りの新幹線では、
「また来よう」に変わった。
なにかどこかで、
「老人が老人として最期の姿を見せるのは、新しい世代に命をつなぐ大事な儀式のひとつだ」
みたいなことを聞いたことがある。
核家族化したりで、身内の老いを直接、また長く体感することが亡くなった現代は、命の尊さを感じる機会を失ってしまっている、みたいな。
死にゆく様を周りに見せるのは尊いことだ、みたいな。
今回、せめてお別れに間に合ったのは本当に幸運だった。
会社員時代の祖母の葬儀も、コロナ禍での祖父の葬儀も行けなかったのは、私のこれまでの人生で、一つの悔いとして残っていたから。
また秋田行こう、と思い直せたのも良かった。
あの地には、まごうことなき、私のルーツのひとつがある。
10年前に買った喪服のアンサンブルは、某紳士服チェーン店で買ったもの。
店員に「葬儀に出たことがないのでなにも知識がなくて」と恥じたら、
「お幸せなことですよ」と言われたのが印象的で、今でも心に残っている。
昔仲良くなった70代のおばあちゃんたちが
「誰かが亡くなったら同窓会みたいなもんよ」と笑っていたのも鮮明に覚えている。
生きるための別れを得た気がした、秋田旅行となりました。